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NNAにMERAC代表江橋の紹介記事が掲載されました。

5月26日のNNAに、MERAC代表江橋の紹介記事が掲載されました。

ミャンマー 2015/05/26(火曜日)
【アジアで会う】江橋正彦さん MERAC代表:第59回 清らかな指導者に未来託す(ミャンマー)[経済]
えばし・まさひこ 1943年生まれ、茨城県大洗町出身。早大法卒。69年にジェトロ(現・日本貿易振興機構)に入会し、中国、ベトナムの調査に従事後、79~82年マニラ勤務。87年から明治学院大学助教授、90年から教授、2000~02年に国際学部学部長。95~00年に国際協力機構(JICA)の「対ベトナム市場経済化支援プロジェクト」、00~03年に「対ミャンマー経済構造調整支援プロジェクト」に参画。12年3月に大学を退職し、7月にミャンマー移住。「ミャンマー経済研究・コンサルティング(MERAC)」を設立。

江橋先生写真NNA

2000年からの対ミャンマー経済構造調整支援で、江橋さんは産業・貿易部会長を務めた。そこでまとめた民間製造業育成や輸出振興、外資導入の提案は、テイン・セイン政権が進める開放政策にも通じる。

前年11月29日、小渕恵三首相(当時)と軍政トップのタン・シュエ議長との15年ぶりの首脳会談の手土産として支援実施が決まった。

1997年のアジア通貨危機後にミャンマーを訪れ、エーベル国家計画・経済開発相と面会。翌年に再訪してアドバイスを求められ、当時の日航ホテルで3カ月かけて「ミャンマーの経済政策に関する若干のコメント」を書いた。キン・ニュン第1書記にも「グッドアイデア」と言わしめ、エーベル大臣からのマニラで日緬首脳会談を持てないかとの提案は、首相官邸につないだ。会談後にはタン・シュエ議長の息子から「日本という強い味方がついた」と父が語ったことを聞かされた。

だが米国の圧力や日本の政権交代で、両国関係は一転して冷え込む。報告書は03年、ひっそりとミャンマー側に渡された。江橋さんは「軍上層部に解説版をばらまいた」と振り返る。一部には理解されたが、輸出税廃止や為替レート一本化という提案が公になれば、軍政に早期実施の圧力がかかる。結局、日の目を見ないまま時が流れた。

軍政は97年以降、欧米の経済制裁を受けて統制を強化。市場経済化を進めた中国やベトナムと明暗を分けた。だが03年にイラクのフセイン政権が倒れると、「次はわが身」と恐れ、同年夏に7段階の民主化ロードマップを発表。08年にサイクロン「ナルギス」の被害を受けながらも、新憲法を制定した。翌年にはオバマ米政権に接近。11年春の民政移管後、欧米主導の国際機関も手のひらを返すように政策支援などを始めた。日本はいま、官民一体でインフラ整備支援に注力しているが、江橋さんの中には「われわれは政策を作る先駆者だった」という思いも残る。

■公を大切にする指導者を

11年8月に政府高官と会い、73年のオイルショック後にマレーシアの空港タクシーがいっせいにメルセデス・ベンツに一新された話を例に、「ミャンマーでも車両輸入許可さえ与えれば、民間のお金で国のイメージを刷新できる」と力説した。商業省は1カ月半後、20年落ちの車と引き替えに新規の輸入ライセンス発給を始め、緩和に動き出す。江橋さんは「政策提案に聞く耳を持っている」と実感した。欧米の制裁はほぼ解除され、開放に反対するのは、国内の既得権益者だけになった。

04年10月に開明派だったキン・ニュン首相が失脚し、息のかかった諜報機関職員が次々と逮捕された。親しかった江橋さんは「彼らがやろうとしたことは、まさにいまテイン・セイン大統領がやっていること」と思い返す。

かつてベトナムで対中貿易赤字解消の戦略立案に携わり、チ

ュオン・タン・サン政治局員(現・国家主席)に報告に赴いた際、意見を求められ「日本がアジアの中でいち早く近代化に成功した原因を一つだけ挙げろと言われたら、明治時代の政治家・官吏が清らかで、公を大切にしたことに尽きる」との司馬遼太郎の言葉を引きながら、率直に汚職体質を批判。のちの国家主席はうなずき、問題解決の難しさを認めた。
軍が50年支配したミャンマーは、「私利私欲に走る軍人もいるが、国防・治安だけでなく経済、政治、外交まで幅広い視野を持ち、国の前途を真剣に考える潔白な人もいる」と希望を託す。「若干のコメント」は、国防大学でミャンマー経済を学ぶ教材として使われ、大佐レベルの幹部が研さんを積むのに一役買った。

■ミャンマーは終の棲家
初訪問は75年2月。タイとの国境貿易を見ようと、ラングーン(現ヤンゴン)から汽車でモーラミャインに入った。闇商人はタイ産品を買い付け、ラングーンで高く売る。雑誌に偽名で発表したルポ「ビルマの光と影」に、現地の人との交流を描いた。「男は盗、女は娼」と聞いていたが、「なんとすてきな国、みんな温かく、親切」と感動した。

学生時代、自分が死ぬ同じ夢を何度も見た。晩年一人で東南アジアの山岳地帯に住み、雨の中、傘を差して歩いていると、枯れるように溝に落ちて死ぬ――。ネパールかベトナムかと思っていたが、ミャンマーに通い始めてここだと確信。定年後に移住しようと決めた。

MERACでは現在、顧客向けの情報配信や、相談に応じ、政治分析

や企業調査も手掛ける。「日本・ミャンマーソサエティ(MJS)」発起人の顔も。「インパール作戦に参加したような昔のミャンマー好きがいなくなる中、研究者や企業人が交流する場を設けよう」と日本で11年2月に発足。自身の移住、在日ミャンマー人仲間の帰国もあってヤンゴンでも会合を立ち上げ、日本人駐在員らの交流の場になっている。(共同通信ヤンゴン支局・八木悠佑)